2007年4月

2007-4-30 / デザインの時代

東京藝術大学美術館で開かれている「東京藝術大学創立120周年企画 パリへ―洋画家たち百年の夢 ~黒田清輝、藤島武二、藤田嗣治から現代まで~」を見に行ってきました。

藝大美術館は、去年の秋の「NHK日曜美術館30年展」以来2回目。残念ながら黒田清輝の『湖畔』は会期後半の展示ということで展示されていなかったのですが、藤島武二、安井曽太郎、梅原龍三郎、佐伯祐三、藤田嗣治、小磯良平から岡本太郎まで、多彩な展示でした。

その中で、あらためて気づかせてもらったのが「浅井 忠」です。

1856~1907 明治期の洋画家。佐倉藩士の子として江戸に生まれる。維新後、洋画をまなびはじめ、1876年(明治9)に創設された工部美術学校画学科に入学、イタリア人画家フォンタネージに師事した。89年、洋画家たちの団体である明治美術会の創立に参加し、同会の展覧会に「春畝(しゅんぽ)」「収穫」など、農村の生活に取材した自然主義的な作品を発表していった。これらは、明治という時代をリアルにとらえながら、文人的な深い情感をこめた表現として評価されている。98年には東京美術学校教授となり、1900年からフランスに留学して2年後に帰国。京都高等工芸学校教授に転じて京都にうつりすんだ。以後、自邸内に聖護院洋画研究所を創設して指導にあたるとともに、関西美術会展にも出品、関西洋画界の指導的な位置にあって、多くの画家をそだてた。(MSNエンカルタより)

上の略歴には書かれていませんが、織物や陶磁器、漆器まで、工芸品の図案も多く残しています。会場では、急須などの陶器や蒔絵の漆器など、浅井 忠の図案にもとづく工芸品も展示されていました。

時代的には1856年生まれで1907年没ですから、以前紹介した神坂雪佳(1866-1942)の少し前の時代の人ですが、同じように京都で日本の近代デザインを担った人物といえるのではないでしょうか。

千葉県立美術館のこちらのページで紹介されています。

関連情報

東京藝術大学美術館 / 藝大美術館のサイト
千葉県立博物館デジタルミュージアム / 千葉県立博物館のページ
日本のアール・ヌーヴォー / 東京国立近代美術館工芸館のページ

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2007-4-21 / 言葉のチカラ

昨年亡くなった、詩人の茨木のり子さんの遺稿集『歳月』を読みました。この方、『倚りかからず』、『自分の感受性くらい』や、国語の教科書にも載って話題になった『わたしが一番きれいだったとき』などの詩作で、谷川俊太郎、大岡信、岸田衿子などとともに、戦後詩のリーダーの一人として活躍してこられた方です。

で、この『歳月』ですが、彼女の死後、遺品の整理をしていた甥の宮崎治氏が発見した原稿と目次メモをもとに出版されたものです。宮崎氏が本書のあとがきで、

『歳月』は、詩人茨木のり子が最愛の夫・三浦安信への想いを綴った詩集である。

と書いてあるとおり、どの作品にも、ご主人が亡くなった後の31年間の「強い想い」が込められています。

悔恨に満ちた『その時』や『最後の晩餐』、喪失感に胸ふさがれる『駅』、日常を続けることの幸せと困難さを表現した『誤算』など、どれも平明で、であるからこそなおさら胸に迫るものがあります。例えば『電報』という作品。

オイシイモノヲ サシアゲタシ  貴公ノ好物ハ ヨクヨク知りタレバ
ネクタイヲ エランデサシアゲタシ  ハルナツアキフユ ソレゾレニ
モットモット看病シテサシアゲタシ  カラダノ弱点アルガゴトクアラワニ見ユ
姿ナキイマモ  イマニイタルモ

『町角』のように、愛し、愛される幸せに満ちた詩もあって、どれもストレートな言葉のチカラを感じる作品ばかりです。 これを読まなきゃウソでしょ

関連情報

歳月 / 茨木のり子(花神社)
茨木のり子さん「生前の死亡通知」 / YOMIURI ONLINE の記事

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2007-4-8 / ついに開通!

4月6日の日経新聞朝刊の社会面に、『アフガンに用水路 復興の呼び水期待』と題して、日本のNGOが4年前から取り組んでいたアフガニスタンの灌漑用水路がついに開通したという記事が載っていました。いや~、ついに開通したんですね。以下、その記事の抜粋です。

水と緑の復興こそアフガニスタン平和の基礎」。同国で医療活動などを続ける非政府組織(NGO)「ペシャワール会」(事務局・福岡市)の現地代表、中村哲医師(60)が5日、福岡市で記者会見し、同会が同国東部で造成していた全長13kmの農業用水路が完成したと発表した。
(中略)
同会によると、用水路の完成で直接潅漑(かんがい)できる耕地が約800ha(東京ドーム約170個分)以上誕生した。一度放棄された農地などと合わせると6800haを潤せるという。小麦の生産は12万人分の消費量にあたる毎年2万tが確保できるようになる。
中村医師らは「多くの病が水不足と隣り合わせ。農業生産にも水が必要」と2003年3月に用水路造成に着手。十数人の日本人スタッフの下、現地の農民を中心に延べ約38万人が工事に参加した。総工費約9億円はすべて日本人の寄付で賄った。
(中略)
4年間の造成中、現地勢力による深刻な襲撃事件などは起きなかったという。中村医師は「米軍や自衛隊が護衛していたら逆に襲撃の対象となっていただろう。平和と復興をもたらすのは武器ではない」と力を込めた。
(後略)

中村医師については、去年の6月にこのコラムでも取り上げました(『アフガニスタン・命の水を求めて - ある日本人医師の苦闘』)。氏は、こうも言っています。

今、周囲を見渡せば、不安を忘れさせる享楽の手段や、大小の「権威ある声」に事欠かない。このことは洋の東西変わらない。一見勇ましい「戦争も辞さず」という国際社会の暴力化も、その一つである。石油の利権を求めて和を損ない、「非民主的で遅れた破綻国家」に目を吊り上げ、「経済不況」を回復すれば幸せが訪れると信ずるのは愚かである。人の幸せは別の次元にある。(『アフガニスタン・命の水を求めて』より)

本当に大事なこと、本当に必要なこと、本当のことを見極められるよう、「権威」にだまされないよう、眼力を養いたいですね。

関連情報

ペシャワール会 / 活動報告などがあります。
この人この世界 2006年6-7月 / 中村哲(日本放送出版協会)

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