今年の5月に癌でなくなった米原万里さんの書評全作品が文芸春秋から出ています。題名が『打ちのめされるようなすごい本』。
各国の小説からドキュメント、エッセイなど、あらゆるジャンルの膨大な読書量にまず圧倒されますが、批判精神を失わない切り口鋭い評論は、それ自体がひとつの作品になっています。
その中には多くの示唆に富んだ評論があるのですが、ひとつだけ引用します。それはノンフィクション作家の鎌田慧氏が1996年に書いた『せめてあのとき一言でも』(草思社)について、同年読売新聞の書評欄に書かれた文章です。
いじめを苦に子供が自殺したというニュースほど胸が締めつけられるものはない。そして言いようのない恐怖と不快感に身震いする。
子供が子供に対してこれほどまで卑劣で陰惨で酷薄になってしまったわれわれ日本人という種には、もう未来がないのではないか。これは種が絶滅へと向かう序曲なのではないか。
だから、いじめ自殺で子を喪った親たちをたずね歩き、その悲痛な訴えを文字にした本書を、怖くてなかなか読み出せなかった。
親たちの肉声を通して自殺に追い込まれていった子供たちの地獄を追体験するのは辛い。思春期特有の自我と羞恥心ゆえに親にいじめのことを話せずに死んでゆく子の心情は不偶で涙が止まらなかった。
いじめは常に集団で行われ、この集団から排除されることを極端に恐れる子供たち。「少数派排除と異端者狩り。強いものへの迎合Lという、まるで大人社会の縮図のような寒々とした子供たちの世界が立ち上がってくる。
その背後には効率一辺倒を追求してきた戦後日本の経済至上主義がある。「お宅の子の自殺騒ぎでうちの子の受験に差し障りがあって迷惑している」と言い放つ親たちの心も同じ病に蝕まれている。
しかし、文字どおり血が逆流し、はらわたが煮えくり返るような憤りを覚えたのは、学校側の対応に対してである。まず、判で押したように「いじめはなかった」と否定する。
当初反省していたいじめっ子側の口封じに狂奔する。遺族がやむをえず遺書を公開すると、「いじめられた子の性格や家庭の問題」にすり替えようと躍起になる。
最優先されるのは「学校の名誉」と校長や教師の保身。住む地域も職業も異なる一四人の親たちの目に映った学校の姿のこの驚くべき相似は、これが局地的な問題などではなく、現行の日本の学校制度そのものの致命的な病であることを示している。
これでは死んだ子は浮かばれない。暗澹たる気分一色に染まりそうな本書の唯一の救いは、わが子を自殺に追い込んだ実態を知ろうとする親の真摯な姿である。
私憤を越えた透明な眼差しには死んだ子への切々たる愛情がある。日本人よ、何を急ぐ。立ち止まってしばしこの透明な眼差しを共有せよ。
(339ページ 「親の肉声に見るいじめ自殺」から)
この10年、わたしたちは一体何をやってきたのでしょうか。小泉政権時代の5年間の間に人々は考えることをやめてしまったのか。ものごとの判断を「二項対立」という図式で単純化し、異質なもの、少数意見を排除するという政権の謀略にまんまと引っかかっているのではないか。
そんな大人たちの世界を見ている子供たちがどうなるか。教育基本法を変える前にやるべきことがもっとたくさんあるはずです。考え続けることをあきらめず、常に批判精神を持っていたいものですね。
打ちのめされるようなすごい本 / 米原万里(文芸春秋)
世界が完全に思考停止する前に / 森 達也(角川書店)
最近、立て続けに女流作家の作品を読んでいますが、その中から3冊、ご紹介します。
短大を卒業してふるさとの西伊豆の町に戻った「私」と、大好きだったおばあさんを亡くしたばかりの「はじめちゃん」の出会いと新たな出発の物語。
『デッドエンドの思い出』で、続けられることの幸せを描いたよしもとばななが、時代を読み取ることに失敗して寂れてしまった西伊豆の町を舞台に、二人の希望と再生を描いています。
名嘉睦稔(なかぼくねん)さんの挿画(版画)もいいです。
主人公というか物語の語り手は、家庭の事情で母親と離れ、親戚の芦屋のお屋敷で暮らすことになった中学1年生の少女。彼女がそこで出会ったのは、清涼飲料水会社の社長である伯父、誤植を探すことにとらわれた伯母、ドイツ生まれのローザおばあさん、病弱だけど利発で美しい従妹のミーナ、住みこみのお手伝いさんの米田さん、無口な通いの庭師の小林さん。そして、コビトカバのポチ子。
小川洋子には『ブラフマンの埋葬』のような、設定の特異な小説があるので「どうかな」とも思ったのですが、これは「いとおしさ」に満ちた、なかなかいい小説でした。寺田順三さんの挿絵も物語の雰囲気にぴったりで良かったです。
一番最近読んだのがこの本。2002年、『卵の緒』で第7回坊っちゃん文学賞を受賞した瀬尾まいこが2004年に発表した作品ですが、今回、出たばかりの新潮文庫で読みました。第26回吉川英治文学新人賞を受賞した『幸福な食卓』もよかったですが、わたしはこちらのほうが好きですね。
仕事にも人間関係にも疲れて、死のうとして山奥の民宿にたどり着いた主人公の、山と海に恵まれた豊かな自然と民宿の「田村さん」のそっけないやさしさにつつまれて、再生とあたらな出発をするまでの、希望に満ちた物語。
木々や草のにおい、海の風まで感じられるような、いい小説でした。
どの作品に共通しているのは、物語に「希望がある」ということです。やはりこういう「救い」のある小説がいいですね。
海のふた / よしもとばなな(中公文庫)
ミーナの行進 / 小川洋子(中央公論新社)
天国はまだ遠く / 瀬尾まいこ(新潮文庫)
いや~、何ででしょうね。何回見ても、何回聞いてもいいですね。団塊の世代を挟んだ40代から60くらいまでの人たちには、何のことかピンときた方もいるのではないでしょうか...
NHK・BS2で10月29日、午後3:00~5:00と午後7:30~9:30の2回に分けて、9月23日につま恋で開かれた『吉田拓郎&かぐや姫 Concert in つま恋 2006』の様子が放送されました。この番組は、9月23日にBSハイビジョンで現地から生中継されたものの総集編として放送されたものです。ハイビジョンでは見られなかった方も、今回は楽しめたのではないでしょうか。
私は9月の生放送も、NHK総合で10月23日の夜に放送された『今日までそして明日から ~吉田拓郎・35000人の同窓会~』も録画して楽しみましたが、今回もしっかり録画しました。
拓郎とかぐや姫の全員で歌った『旧友再会フォーエバーヤング』から始まって、拓郎の『今日までそして明日から』までの全5ステージ(拓郎3ステージ、かぐや姫2ステージ)、そしてアンコールで歌った『神田川』、『聖なる場所に祝福を』まで、ステージと会場の観客が、「今ここにいられるシアワセ、この時間を共有できるシアワセ」を感じているような、そんなステージでした。
特に、拓郎が最後のステージで歌った『言葉』、『永遠の嘘をついてくれ』(なんと作詞作曲の中島みゆきとのデュエット!)、『今日までそして明日から』なんかは、良かったですね。終わりのないように繰り返される「わたしは今日まで生きてみました」のフレーズ、最後に深々と頭を下げる拓郎、ステージを引き上げてから山田パンダと抱き合う拓郎、拓郎がステージからいなくなった後も歌い続ける観客、そして地鳴りのような拍手とアンコールの声。
拓郎はやっぱりカッコヨカッタ。
もしかしたら抜けている曲があるかも...
拓郎と中島みゆきの関係についてはこちらのサイトが参考になるかと。